いつかまたどこかで必ず会える
直訳すると「人生はどこで再び会わないことがあろうか」となる。思わぬ再会
ことば帖
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直訳すると「人生はどこで再び会わないことがあろうか」となる。思わぬ再会
馮延巳の『謁金門』からの引用。风乍起,吹皱一池春水「ふと風が吹き、水面が波立つ春の池」となるが、風が起きると池に波が立つように、ある出来事がほかのことにまで影響を及ぼすたとえとなる。
劉向の『戦国策』から。诗云,‘行百里者半于九十’,此言末路之难「古い詩に百里の道のりを行く者は、九十里を半ばとする、とある。これは最後の行程が難しいことを述べたもの」からの引用。強大な勢力を誇った秦の王が周辺諸国を侮っていたため、これを諌めた言葉。成功が近づくほど気を引き締めなければならない、失敗しないよう最後で気を抜かないよう戒めるときなどにも使用する。
千里之堤,溃于蚁穴(qiān lǐ zhī dī, kuì yú yǐ xué)
逝者如斯夫,不舍昼夜(shì zhě rú sī fú, bù shě zhòu yè)
年は取っても気は若い、年は寄れども心は寄らぬ
秧好一半谷も同じ。苗の出来によって作柄の半分が決まる。良い仕事(苗つくり)をすればよい結果(収穫)が生まれる。
煮ても焼いても食えぬ、手に負えない、扱いようのない
アカペラ
良好的开端,是成功的一半(liáng hǎo de kāi duān, shì chéng gōng de yī bàn)
肩不能挑,手不能提(jiān bù néng tiāo, shǒu bù néng tí)
貧弱、か弱い
広東語で相手を称賛するときに使用する。
有钱走遍天下,无钱寸步难行(yǒu qián zǒu biàn tiān xià, wú qián cùn bù nán háng)
年をとってから習い事や学び事を始める、 晩学のたとえ。
一字読み進めるごとに一滴の涙を落とすほどに文章や手紙が深い感動を与える。
腹が減っては戦ができぬ
腹の虫が治まらない、怒りを抑えることができない
日计不足,岁计有余(rì jì bù zú, suì jì yǒu yú)
山中有直树,世上无直人(shān zhōng yǒu zhí shù, shì shàng wú zhí rén)
他人の物や行為に便乗し、自分は何もせずに利益を得るたとえ。
人は万物の霊長
百样通,不如一样精(bǎi yàng tōng, bù rú yī yàng jīng)
卫生裤も同じ。
きめが細かくて滑らか、すべすべでつややか
四体不勤,五谷不分(sì tǐ bù qín, wǔ gǔ bù fēn)
直訳すると「一家の主人とならなければ薪や米の貴さが分からない」となる。一家の主人になることは簡単なことだが、実際に責任を負って生活すると大変さが分かるという意味。
顔を横に3分割したとき、眉から鼻下までを「脸的中庭」(中顔面)という。顔の全体で見るときにこの中顔面が長いと黄金比という観点からもバランスで理想形から程遠くなる。そのため、「缩短中庭」(中顔面を短くする)そのように見せるメイクが注目されている。中庭短は「中顔面が短い」となる。
大屏幕、大银幕と同じ意味。(テレビなどの)小さな画面は小银幕という。
心に悪意がある、謀略をめぐらす
不是东风压倒西风,就是西风压倒东风(bú shì dōng fēng yā dǎo xī fēng, jiù shì xī fēng yā dǎo dōng fēng)
「四两(200g)が千斤(500kg)を動かす」とは太極拳の極意で、小さな力で大きな力を制することができる、つまり『柔よく剛を制す』ということ。
情种は「愛情豊かな人、情深い人」の意味。
無駄に費やす、無駄骨
『論語』から。过则惮改も同じ。過ちを犯したと気づいたら、自分の面目や他人の目など気にせず、ためらうことなく改めるべきであるという意味。
「大きな木のしたには影ができ涼むことができる」から。金持ちは金が有り余るほどあるから、自然にまわりに金がこぼれ落ちる。だから施す気持ちがなくても、まわりの人々に恩恵を施していることになるということ。