嫌になっちゃうほど(よい)、表現できないほど、筆舌に尽くしがたいほど
2015年のネット流行語。「嫌よ嫌よも好きのうち」という言い方があるが、同じ言い方を重ねることで逆説の意味合いを持たせて程度を強調する。
ことば帖
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2015年のネット流行語。「嫌よ嫌よも好きのうち」という言い方があるが、同じ言い方を重ねることで逆説の意味合いを持たせて程度を強調する。
夜猫子は「1フクロウ 2夜更かしをする人 3夜型人間」の意味。
ネット上では強気な発言をするが、実生活ではおとなしく小心者のこと。ネット弁慶は「内弁慶」をもじったいスラング。躲在键盘后面的人「キーボードの後ろに隠れている人」という言い方があるが同じ意味。喷子「ネット荒らし」。
轻食主義の意味で、低脂肪、低カロリー、塩分、糖分控えめ、豊富な食物繊維の栄養バランスの取れた食べ物を指したり、食べる量を減らし小食にするという意味もある。
CP
直訳は「私も酔ってしまった」。頭が働かない状態を表している。
必要な時にだけ工具(道具)のように使われる人のこと。
90年代に台湾で流行ったネット用語。ある男性が女性に告白したときに「あなたはいい人だけど、ずっと一緒にはいられない、恋人として見ることはできない」と相手を傷つけないようにと断ったことから。好人卡は「友達以上恋人未満の関係」とも言える。
街角をほうきで掃くという意味。1はストリートで人や風景を撮影することを指す。SNSなどで「#扫街」の単語とともに撮影した街角スナップを上げている人が多い。街拍と同じ意味。2は梯子酒と同じ使い方で、何軒ものお店を連続して渡り歩くこと。
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本の虫でありたくさんの読書量があるが、本だけの理論に留まって知識が実際に役に立たず、実践や応用が効かない人のことを揶揄する単語。
2の意味は、スマホや電気自動車のリチウム電池の持続可能時間としてよく使用される。
(外部や海外から招いた)人材、スタッフ。
吊丝(diào sī)も同じ。家や車はなく貧乏で容姿が恵まれていない、いわゆる条件が劣っている若者を指す。自嘲するときに用いるスラング。類語として穷矮搓があり、反意語としては、高富帅(高身長、金持ち、ハンサム)白富美(色白、金持ち、美人)。コネがないと社会では上流階級とは無縁であるという風刺的な意味合いもある。
我给你跪下了の略語。「あなたに対して跪く」→「あなたに対して敬服する」となる。叹服、拜服、佩服などと同じ意味。
教科书级别も同じ。皮肉を込めて否定的にも使う。
newbee
汉化组も同じ。海外の映像作品にファン(愛好家)が非公認・非公式に作品に字幕(subtitled)を付けているグループを指す。世界中に数多くの映画作品やアニメがあるが、ファンが勝手に字幕を付けているものが意外と多く出回っている。そのため翻訳の質はまちまちで、粗悪なものからプロ顔負けな良質な翻訳までが混在している。無断で字幕をつけているため、著作権侵害の問題も指摘されている。
爱的小窝(爱情小窝)「愛の巣」=「愛の住処」から2のように小さいけど居心地のよい、リラックスできる空間という意味合いで使う。金窝银窝不如自家的狗窝(草窝)「いくらよい場所であっても,やっぱり自分の家がよい」。3のように「抖音小窝」「QQ小窝」のようにSNSサービスの交流メタバース空間の意味でも使う。
もともと仏教用語で仏の加護などの意味を持つ。サンスクリット語の原意は「下に立つ」「支えとなる」。
一帆风顺、事事如意と同じ意味。
心有所想,事有所成(xīn yǒu suǒ xiǎng, shì yǒu suǒ chéng)
如愿以偿は同義語。
一つ願いが叶えば、もう一つ、さらにもう一つと欲が出て満足することがないとの意から。人間の欲望には限りがないということ。
日本語の言い方では、家和万事成(家和して万事成る)。家和万事成は同義語。家族が円満であればあらゆる事がうまくいくということ。
心之所想,皆如心所愿(xīn zhī suǒ xiǎng, jiē rú xīn suǒ yuàn)
最後は上手くいく、最終的には成功する
砥砺は「鍛え磨く、励ます、激励する」の意味。
司馬遷「史記 屈原列伝」の”天哪!老天爷啊!保佑保佑我们吧”から。
官运は「官吏登用の運、役人の出世運」の意味。官运好でも同じ。
万事如意とほとんど同じ意味。
万事皆可期でも同じ。未来可期は「未来に期待が持てる、未来に希望がある」。
やりきれない気持ちで一杯、(上手くいかず)残念でたまらない
凡事留余地,雅量能容人(fán shì liú yú dì, yǎ liàng néng róng rén)
老子の《道德経》からの引用。道教の思想。原文では「道常无为而无不为」となっており(道は常に無為にして、而も為さざるは無し)となる。無為とは自然のままに振る舞うこと(自然の道理に従うこと)で、それにより為せないものはなくすべてが為せるということ。